ちょっとコラム   盛岡の渡し船

 盛岡インターと手代森地区を結ぶ都南大橋が開通したのは87年、最初は2車線の橋でした。93年には交通量の増大に伴い4車線化工事を開始、2年後に完成しました。それまでは手代森地区と三本柳地区を行き来するには盛岡の南大橋に廻るか徳田橋にまで下るしかありませんでした。さらにその南大橋、徳田橋もないころは明治橋か石鳥谷の大正橋まで廻る必要がありました。そのため活躍したのが渡し船。車も自転車も少なかった昭和30年代までは渡し船が庶民の大事な足でした。ただ上流のダムもなかった当時の北上川は雪解けや大雨の後は目もくらむような急流の暴れ川、渡し船の転覆といった事故も多かったようです。江戸時代には急いで川を渡ろうとした花魁の乗った渡し船が転覆、その霊を慰めるために始まったのが舟っこ流しだという話もあります。昭和14年10月2日には盛岡農学校生を乗せた渡し船が転覆、14名が犠牲となりました。その50年忌に同窓生の建てた碑が自転車道のすぐしたにあります。南大橋、都南大橋、都南中央橋、徳田橋の各橋が完成してからはもちろんそのような悲惨な出来事はなくなりました。

農学校生遭難の碑
盛岡農学校生遭難の碑
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